決して怪しい者ではありません

最近、夜な夜な薄暗い井戸小屋で、懸垂をしています。

持ち手や、手の幅などを変えながら、5回×10セットくらい・・・

 

限界ぎりぎりまでやっているので、怪しいうなり声が出ます。

 

最後にもう1セット・・・と言うときには、恨めしそうに梁からぶら下がったロープを見つめながら、飛びつくタイミングをじっと待ちます。腕がぷるぷるしているし、もうできないかな、辞めようかな、なんてことを考えながら井戸小屋の天井付近を見上げています。

 

でも、この姿って、冷静に考えると超怪しいです。

 

薄暗い井戸小屋で、深刻な表情で、梁からぶら下がったロープを見上げている。時代はアメリカの金融危機を発端にした大不況。確かこの家の人は、零細企業経営者・・・。ご近所の方が、もし、この姿を見たら、すぐに通報されそうです。

 

決してそのようなことはございませんのでご安心下さい(笑)。

夜中に懸垂しているだけです。

インフルエンザの予防接種をしてきました

先日、家族全員でインフルエンザの予防接種に行ってきました。

 

効果がないとか、極々まれに副反応で重大な後遺症が残ったりするということで、何年か前から学校などでの集団接種がなくなりましたが、私が知る限りの医療関係の人たちは、みんな予防接種を薦めています。私も、これまでインフルエンザにかからなかったり、かかっても症状が少なかったのは、予防接種をしていたおかげだと思います。

 

と言うわけで、家族4人でインフルエンザの予防接種に行ってきました。

 

予防接種をしてもらったのは、民間主導で東濃地区の医療不足と、地域医療福祉サービスの向上を目指したNPO法人東濃メディカルゾーンふくい内科クリニックさんです。

10月1日にオープンしたばかりのふくい内科クリニックさんは、当然ながら施設は新しく、きれいです。しかも、インフルエンザの予防接種が安い(大人2000円)ので、とてもオススメです。

 

インフルエンザの予防接種は、是非みなさんやっておきましょう。

個人の存在意義

今朝のPAL研究会の朝食会(勉強会)は、SMCグループ曽根先生が講師で「創業百年企業をつくろう」というテーマでした。

 

その中で、会社の存在意義、個人の存在意義についての話も出てきました。会社の存在意義はともかく、個人の存在意義というのは、なかなか難しいテーマです。経営と言うより哲学的な話になります。

 

曽根先生の話としては、会社の存在意義と個人の存在意義は全く別であり、会社が残念ながら無くなることになっても、個人まで無くなることはあってはならないということでした。会社が倒産して、自宅も取られ、自殺をするなんていうのは、もってのほか、ということです。全く同感です。

 

それを実現するためのテクニック的な話が、今回の勉強会のテーマで、とても勉強になりました。

 

しかし、改めて個人の存在意義について考えてみると、一言で言うのは難しい事柄です。曽根先生が、人間としての義務と言われた「命の継承」ということは、私も以前からそう思って生きています。人間としての義務と言うより、「生物としての義務」だと私は思っています。数十億年前から、生物は自分の遺伝子を次の世代に伝えるために生きていているという考え方もあります。

最低限、命の継承(遺伝子の伝承)をすることは、生命としての義務だと思います。

 

この義務を果たしやすくするために、本能的に子どもが可愛くて愛おしく感じるように脳はできています(神様はよく考えて作ってます(笑))。

そこで、経済的余裕のある人は、多くの資産を子どもに残してしまう失敗をします。

 「自分が経済的に苦しかったから、子どもにはお金で困らないようにしてやろう」

と考えてしまうのだと思います。これは大きな間違いです。

程度の問題もありますが、私は子どもには資産を残すべきではないと考えています。社会人になるまでは子どもの望む教育を受けさせられるだけの資金提供はしてあげるべきだと思いますが、それから先は基本的に大きな資金提供はすべきではないと思っています。

 

なぜ、そう思うか?

 

私自身、親が資産家でなかったことで、得られた喜びや幸福感は、とても多いからです。

 

もし、親が裕福で、私がオーストラリアに行くときも豪勢な留学などしていたら、あんなに貧乏で、無茶苦茶で、刺激的で、楽しかったオーストラリアの生活はできなかったでしょう。

もし、親が裕福で、私が事業をするときに数千万円とか出資してくれたりしていたら、こんなに一生懸命会社が生き残るためにがんばれなかったでしょう。仮に、ちょっとうまくいったら天狗になり、とんでもなくいやな人間になっていたでしょう。

もし、親が裕福で、私が自宅を買うときにお金を出してもらっていたら、今のような水道も無い山奥のボロ家に、魅力を感じて毎日楽しい生活を送ることはできなかったでしょう。

 

もし、親が資産家で、自分がその資産をもらえると思っていたら、今のような幸福感に満ちあふれた人生は送れていなかったと思います。

 

これは、私が人間的にレベルが低いから、という理由もあると思います。人間的レベルの高い人であれば、例え親からたくさんの資産を継承しても、慎ましく幸福な人生を送れる人もいると思います。しかし、ニュースになるような遺産相続でのどろどろの身内の争いを、見る限り、そんなに人間的レベルの高い人が多いとは思えません。

 

私個人の存在意義、何のために生きているのか、その答えは

「幸せを感じるため」

「感動するため」

です。このためには、親があまり裕福で、多くの資産をもらったり相続しないのが得策(もらう側のレベルによっては、絶対してはいけない)だと思います。

 

そんなわけで、私の子どもには大きな資産は決して残さないようにしたいと考えています。なんて偉そうに書きましたが、そもそも私には大きな資産を築ける可能性も低いので、我が子達は、幸せになる要素を十分に持っています。

 

Life is good! (人生楽笑)

 

これを、身をもって子どもに伝えることは、必死にしたいと思います。

お母さんになりたい・・・は本能か

小学校低学年以下の女の子の将来の夢ランキングに、「お母さん」とか「お嫁さん」というのが、入っているのは本能的なものなのでしょうか?

私が子どもの頃も、クラスに一人や二人は将来の夢、お母さんという女の子がいました。そして、女の子はママゴトのような遊びをして、人形を子どもに見立てて遊びます。

我が家の娘達も、自分が母や親にしてもらうように人形の世話をして遊びます。そして、Youの将来の夢は「お母さん」。

 

我が家には男の子どもがいないので分かりませんが、私が子どもの頃、男の子で将来の夢が「お父さん」という子はいませんでしたし、聞いたこともありません。お父さんと同じ職業に就きたいという子はいますが、「お父さん」というポジションにあこがれる子はいないです。

 

これって、日本の教育制度とか社会制度の問題だけでなく、本能が関係しているように思います。

慣れは恐ろしい(150円でも安く感じてしまいます)

ガソリン価格が、毎月下がってきています。

 

昨日、給油したときは151円/リットル。

ものすごく安くなってます。

 

あぁ、よかった・・・

 

と思いそうになってしまいましたが、今年の5月にガソリン価格が150円台になったときには、「なんて高くなったんだ」と驚き、もう、車に乗りたくないとも思っていました。

 

たった半年で、ガソリン価格に対する感覚が大きく変わってしまいました。恐ろしい・・・。

 

150円!! 高い!